「生きづらさ」の話。

1週間ほど経ってしまいましたが、小飼弾さんの404 Blog Not Foundで「生きづらい = 否定すべき権威が見つけづらい」というエントリーが興味深かったので、ちょっと辿って読んでみた。
弾さんはこのエントリーで、「権威の否定がいきづらさにつながる」というたろさんのエントリーを

違うよ。全然違うよ。

否定すべき権威が見えなくなっちゃったから、生きづらいんだよ。

と真っ向から否定しているんですが………なんつーか一言で感想を言うと、どっちも「昔へ戻ろう」って言ってるだけじゃないか、と。変わんねーじゃねぇかと。
もちろんお二方の言う「昔」のベクトルは大きく違うんだけど、「生きづらさ」を感じているヤツらのそれを取り除くには、そういう今まであった発想じゃダメなんじゃないの、とゆとり世代的には思うわけだ。

たろさん的「生きづらさ」への解釈と対処

自分でいちいち考えるのと,意思を持って貫けることが出来なかったら,大半のことは誰かに決めてもらったほうが楽です。でもそれが,怪しい集団や宗教だったりすると危険です。ですから,昔は何百年も続いてきて社会に適合した仏教みたいなフォーマットがあったのでしょう。
まぁ別に宗教を信じましょうとか,学校の先生の言うことを聞きましょうというのがいいたいことじゃありません。ただ,何かを否定することが,結局は自分のいきづらさにつながってるのではないかな?と思うことがあるということです。なにか得をしていきようと思うばかりじゃなくて,どうでもいいことは誰かの言うこと,そして昔から守られていることに従って生きたほうが,本当に大事なことにエネルギーを注げるような気もします。

文中強調はKairi。

まぁ仏教が「社会に適合した」フォーマットだとは思わない(「社会を適合させた」ならわかる)けれど、言いたいことはわかるんです。

つまり、「自分」という存在の拠り所を何にするか、という話。常識とか習慣とか宗教とか、そういった既にあるモノ(エントリー中の用語で言うなら「権威」)に拠るのか。はたまた、自分の意志とか思想とか信念とか、そういったモノを1から作り上げて、そこに拠るのか。
で、たろさん的には、「権威」に拠った方がいいと考えたわけだ。それはわかるんです。
建築物に例えるなら、「自分」が“家”で、「権威」が……まぁ、“街”。だだっ広い荒野をわざわざ開墾して、土地を均して“家”を建てるよりも、既に“街”の中にある空き地を利用して建てた方が楽でしょ?ってことですから。

でも思うんです。今回の「生きづらさ」問題の根幹は、“街”に生きることを軽視する風潮なのでも、“街”の外の荒野の存在が知れ渡ってしまったことでもなくて、“街”の中に魅力的な空き地が残っていないことなんじゃないか、と。もしくは“家”を建てられるほどの空き地も残っていないんじゃないかと。
「権威」、旧来の社会に、これ以上の人々を支えるだけの包摂力が残されていないんじゃないか、と。

“街”に(物理的or魅力的に)いい空き地がないなら、若者はどんどん荒野に降りて、新たに“家”を建てなきゃいけなくなる。まぁ、いわゆる「自分探し」だ。
でも、荒野は広い。“街”と違って、何かから選びとればいいんじゃない。いちいち自分で考えて、選択肢を作らなきゃならない。………正直、それは面倒だ。
だから、たろさんが言うように、楽に生きたいなら“街”に戻ればいい。
しかし残念ながら、荒野で「自分探し」しちゃった人はそれがなかなかできない。だって元々土地がないから出て行ったのだもの。そんなヤツのために“街”が空き地を用意してくれるはずはない。

つまり、「生きづらさ」を感じているのは、「権威」の側に回りたいのだけど回れれない、かつ、1人で「自分」の拠り所を用意できない人々なのだ。
そんな人々に「権威に従って生きろ」というのは酷だ。できるなら初めからそうしているのだから。

小飼弾さん的「生きづらさ」への解釈と対処

一方、弾さんは「生きづらさ」をこう解釈している。

「大人になる」というのは、これまで–そして今でも–「自らが自らの権威となる」ことを意味していた。権威の否定というのは、そのために欠くことの出 来ない成長過程でもあったのではないか。親や教師を否定して行く過程を経て、人は親となり教師となっていくというわけだ。

ところが、権威というのはまさに挑戦され、否定され続けるために存在するのである。

これではなり手が減るのも無理はない。

それでも、親だとか教師だとかといった職業は残る。それでどうなったかというと、職名はそのままに、彼らは権威を引き受けることをやめたのだ。「こうしなさい」というのをやめ、「あなたの思う通りにしなさい」と返事するようになったのだ。

それは、正しいようで正しくない。誰かが「いずれは間違っていたことが証明される」という立場を引き受けないと、何が正しいのかがわからなくなってしまう

それがわからないから、「生きづらい」のではないか。

文中強調はKairi。

先ほどの例えで行くと、今まで「空き地はなくとも、工夫して“街”に“家”を建てること」が強制されていたけれど、最近は苦情殺到なので、「空き地がないならしゃーないね。荒野開拓してもぉk。だから好きにしたまえ」な姿勢に“街”の側が変わってきた、と。“街”の政治家が土地不足を原因とした違法建築の責任追求にビビって、市場介入やめてみました、みたいなね。………あれ、どっかの国で聞く話だね。
で、とにかく“街”で空き地探してた若者は喜び勇んで荒野に飛び出していくわけだ。「広い土地がある!」と。
ところがどっこい、落とし穴は隠されているもので、「好きにしたまえ」の前には小さく「自己責任で」と書かれていたらしい。“街”を出てった以上は生活保障なんてしてやらねーよ、という政治家の作戦勝ちなのでした!みたいな。

…………余計わかりにくくしちまったかw
つまりはまぁ、人は「権威」による規制にあうことで、なにが自分にとって正しいのか、間違っているのかというのを「権威」と「自分」の比較で判断できるようになる、と。
ところがその規制がないせいで、「自由って言ってもなにすりゃいいのかわかんねーよ」的なゆとり発言に繋がるということだ。その「わかんねーよ」が延々と続くから「生きづらい」のだ、と。

その上で、弾さんは具体的対処として、自らの親としての姿勢を上げている。

それゆえに、私は娘たちにこう言っている。

「我が家では、どんな時でも弾が正しい」、と。

それは、私が無謬でないこととは矛盾しない。むしろその逆だ。弾はしょっちゅう間違える。本blog名物のtypoを見るまでもなく。しかし「弾が 正しい」としておくことで、娘たちは弾が間違っている場合にどう間違っているのかを説明し、実際に正しいのは何なのかを証明することを強いられる。もし私 が「君の思う通りにしなさい」と返事をしていたら、娘たちが「仕事」から学ぶ機会がなくなってしまうではないか。

つまり、荒野で“家”を建てたなら、“街”になるまで発展させろ、と。

……………まったくもって、本質を理解できていない。
前述の通り、「生きづらさ」を感じている人々は「権威」に拠ることに未練を感じているのだ。端から独りで荒野に“家”を建てられる人間は、弾さんのように「生きづらさ」など感じない。だって独りで生活できるから。“街”の補助などいらないから。

もう私は生きづらくはない。「きつく」はあっても。

そりゃぁそうだろう。そもそも生きることは「きつい」こと(=苦労)の連続だ。それは誰しも同じ。
でも、弾さんは「生きづらさ」に関しては感じない。彼はもう、荒野の“家”ではなく、“街”そのものなのだから。

Kairi的「生きづらさ」への解釈と対処

さて、整理しよう。「生きづらさ」を感じている人はどんな人々か。

  • 「権威」に拠って生きたいけれど、残念ながらその中での「自分」に適応できない。または、それが希望の「自分」ではない。
  • しかし、独りで何もかもを考え、選択し、生きるほどの能力はない。または、面倒。

つまり、彼らは「権威」に拠れず、「自分」で考えることもできないので、ただ流されるままに生きていくしかないのだ。

「権威」に拠っていれば、とりあえず集団内での「自分」の地位が確立され、そこだけでも社会との繋がりを感じる。
「自分」で考えて生けていれば、(極めれば)弾さんのように「権威」として「自分」を確立できる。=対外的関係として、社会と「自分」に繋がりができる。
……………そう、彼らは結局のところ、社会と「自分」の繋がりが曖昧。すなわち、社会と関われずに寂しいのだ。社会(世界と言い換えてもいい)と「自分」の関係性が曖昧だから、「自分」が曖昧で、「生きづらい」と感じる。

もちろん、その根底には弾さんみたいな方への憧れがあるのは言うまでもない。でも彼らにそう生きられるほどの能力はないのだ。本人にないのか、教育や環境でそうなったのかは要因として除外するとして。
だったらたろさんが言うように、「権威」に適用できるよう、自分を変えればいいと思う方もいると思うが、元々それができなかったから「権威」を否定して生きようとしているのだ。
もう戻るところもない。まるで陸に上げられた魚のように、孤独を抱えたまま、少しずつ少しずつ息が詰まっていくのだ。そりゃ生きづらい。

では、彼らがその「生きづらさ」からどうすれば脱却できるのか。それはすなわち、一言に尽きる。

とりあえず、関われ。

某有名ラジオ番組のサブパーソナリティーじゃないが、とりあえずどんな形であれ、社会と繋がるようなところを作れ。
元記事には、例として左翼組織が挙げられている。

こうしてみると、左翼組織というのは、その事務所において、たまり場であり、サポートセンターであり、行政や雇用への窓口であるということを兼ね備えた ところになりうるのである。そして、思想的連帯感という前提はあるものの、なにより居心地がいい。「他者とのコミュニケーションのなかでそのつど自分の能力や価値を認めてもらわないといけないという圧力」がない、もしくは非常に弱いのである。
それは自分の「居場所」を定め、「価値」を無条件で承認してくれる、「生きづらさ」緩和組織たりうるのかもしれないのである。

左翼組織という“街”は相当に解放されているらしい。空き地がまだまだたくさんあって、出入りや住む上での規制が特にない“街”。“市場”とでも例えようか。
もちろんこれは左翼組織だけの話ではない。NPOやらサークルやら宗教団体やら、同じようなコミュニティーはたくさんある。「生きづらさ」を感じているなら、とりあえずこの“市場”に関わってみればいい。多分、悪い気はしないと思う。

しかし、これだけでは不十分だ。“市場”は人もモノも頻繁に出入りすることで成り立っている。そしてそれには、流通路となる幹線道路とその案内が不可欠だ。
つまり社会の側から、こういったコミュニティーがそれ単体で完結しないように、それぞれネットワークを構築するよう促さねばならない。ネットワークがなければ、入ったコミュニティーからも外れてしまった人の選択肢が、またなくなってしまう。
今はまだ、そういったところができていない。誰かに頼らないと生きていけないけど「権威」には拠れない人々への救済処置があまりにもなさ過ぎる。“街”に包摂力がないなら、社会の方で作っていかなければ。

  • 1つは、自由なコミュニティーを作ること。
  • もう1つは、「権威」やコミュニティーを繋ぐネットワークを強化すること。

昨年の秋葉原の事件だって、少なからずこの「生きづらさ」の問題が関与しているのだと思う。
我々の社会で「生きづらさ」を感じないようにしていこう。
そのために必要なのは、個人の努力と社会の改変、その両方なのだ。

投稿者:

Kairi

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